テゼからの手紙2026年

何を求めているのか

ブラザー・マシュー
Taizé

多くの人が人生の意味を探し求めています。機器の画面に日々あふれる安易な約束以上の何かを求めているのです。本当の目的のために人は創られたはずです。それを見出すには何が必要なのでしょうか。

信仰の道に信頼して生きようとするとき、「神は私に何を望んでおられるのか」と自問することがあります。願望はたくさんありますが、神と共に歩む道はどれなのでしょう。

昨年、テゼにはウクライナ、パレスチナ、レバノン、ニカラグア、ミャンマーなど、戦争や紛争の絶えない地域から若者たちが訪れました。彼らの信仰、そして正義と持続的な平和への渇望は私たちにとって大きな励ましでした。ガザで働く人々や、そこに家族を持つ人々の証言も聞きました。愛する人が人質となった痛みを知り、抑圧的な体制のもとで正義を求める叫びを聞きました。

私はブラジルとキューバのテゼの家に暮らすブラザーたちを訪れました。ブラジルは奴隷制が残したものと深刻な格差に今も苦しんでいます。しかし、あきらめずにもっとも貧しい人々のそばに立ち続ける人々がいます。特にサルヴァドールの教会では、ホームレスの人々が共に眠り、助け合っています。

キューバでは、大きな困難に立ち向かう勇敢な人々に出会いました。孫の新学期の準備のために貯金をすべて使い果たした女性に会いました。この子の母親は、より良い未来を求めて他の多くのキューバ人同様、国外へ移住していました。

多くの場所で人々はこう問いかけています。「与えられた自由を、苦しむ人々への連帯のためにどう用いたらいいのだろうか」。彼らは、愛し、寄り添いたいという願いが現実のものとなる道を探し求め、人を助け、人に仕えることを通して人生に意味を見出そうとしているのです。

この世界には美しさが満ちていますが、不正義もまた多く存在します。人生の複雑さと何を選択すべきかを思うとき、私たちはこう問うのです。「私の居場所はどこにあるのだろう。私は何を求められているのだろう」と。

「あなたは何を求めているのか」、これはヨハネによる福音書におけるイエスの最初の言葉です。この問いを、4つの大陸から来たそれぞれ国が異なる6人の若いボランティアたちと分かち合いました。以下に記すことは、彼らの語ってくれたことに触発されたものです。

彼らとテゼで奉仕してくださるすべてのボランティアたちへ、祈りとキリストの呼びかけを深めるためにテゼ共同体と時間を共にしてくれることに心から感謝します。

ブラザー・マシュー

 

沈黙を求めて

テゼでの一週間の滞在を終えた若者たちに「何が一番心に残ったか」と尋ねると、多くの人が「沈黙の体験」と答えます。常に接続され、絶え間なく動き続ける現代社会で、これは驚くべきことかもしれません。

終わりのない情報から距離を置く時間を持つとき、私たちは沈黙の中で自分自身と出会い、より大きな現実を垣間見ることがあります。

神の美しい創造の中で、風の音、小川のせせらぎ、鳥のさえずりが私たちを包み込み、それらは、すべての存在との交わりが感じられる内なる沈黙へと導いてくれます。星がちりばめられた夜空は、私たちに驚きをもたらします 。*

イエスは沈黙の中でこの世に来られました。*「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた」。*すべての始まりの前から神と共にあり、神であった方が、静かな夜に、へりくだった誕生を通して私たちのもとに来られました。*それは闇の中に輝く光です。

この沈黙は空虚ではありません。それは出会いの場となるのです。沈黙の中で、私たちは独りではありません。ただ、私たちの心には多くの思いが渦巻いているため、沈黙と向き合うのが難しいのです。「テゼの規則」はこう記しています。「注意が散漫になったら、気づいた時点で祈りに戻りなさい、悔やむことなく。」*

何世紀も前、ある人が祈りました。「心よ、主はあなたに言われる、『私の顔を尋ね求めよ』と。主よ、私は御顔を尋ね求めます」。*私たちは心の沈黙の中で、何回も繰り返し神を求め続けるでしょうか.

祈りとは、まず何よりも願いです。* 神の前で平和を求める静かな憧れです。祈り方がわからないときでも、聖霊が言葉にならない深いうめきの中で私たちの中で祈ってくださいます。*心のもっとも深い部分に耳を傾けると、そこに聖霊が宿っていることに気づきます。そこで私は自分自身と、そして私の中に息づく神と向き合っています。

いのちの神よ、心の静寂の中で、被造物の美しさの中で、あなたの御言葉に耳を傾け、あなたの謙虚な存在を受け入れることで、あなたを求めることを教えてください。

毎日、沈黙のうちに神の御前に座る時間を自らに約束できないでしょうか。まずは5分間ぐらいから始めたらどうでしょう。聖書の短い箇所を読むことから始めてもいいですし、その日に受けた恵みに感謝し、あるいはただ静かにそこにとどまるだけでもいいのです。

 

方向を求める

沈黙は真の識別を可能にします。進むべき方向を模索する時、沈黙は私たちの内なるもっとも深い声に耳を傾けさせます。責任ある選択をするためには、内なる自由もまた必要です。その自由には自らの限界を受け入れることも含まれます。しかし、恐れを抱くことなくその限界を受け入れることが大切です。恐れは決して良き助言者ではなく、神は決して私たちの心を強制なさいません。

誰もが帰属意識と何らかの安心感を求めています。そして真実の生き方を模索する中で、他者が真の自分を見つける手助けとなることがあります。他者を通して、独りでは決して見出せなかったことに気づき驚かされることもあります。

ヨハネの福音書には、二人の若者が信頼する師である洗礼者ヨハネと共にヨルダン川近くにいたことが記されています。ヨハネは、彼らを自分のもとに留めようとはせず、彼らを別の人、すなわちイエスへと導きます。そして彼らはイエスに従うためにそこを立ち去ります。

イエスは彼らを見て「何を求めているのか」と問います。彼らが「先生、どこに泊まっておられるのですか」と答えると、イエスは言われます、「来なさい。そうすれば分かる」と。*

この二つの問いは、キリストと共に生きるための方向性を求め、それを見出す過程を要約しています。自らの渇望、つまりより豊かな人生への憧れを表現することから始まる―「何を求めているのか」―そしてそれをイエスという人物と向き合わせる―「先生、どこに泊まっておられるのですか」と。

「来なさい。そうすれば分かる」と招かれるイエスは、心優しく謙遜です。無条件で、確かな決して裏切らない愛をもって私たちを愛しておられます。ためらいや疑いさえ抱きつつも、私はこの招きに応える勇気を持てるでしょうか。

キリスト・イエスよ、道を示し、その道に従う勇気をお与えください。*

キリストへと私を導いてくれる人々は誰でしょうか。いま、彼らに感謝の思いを差し出すのです。

  

喜びを求めて

テゼのあるボランティアがこう語ってくれました。「私の国では、若者たちはすべてが揃っているような世界で生き延びようとしています。でも心の奥では、恐れ、不安、そして抑うつが支配しています。」

私たちは周囲から「喜び」の約束を絶えず受けています。しかし、それらの多くは一時的な心地よさにすぎず、持続する喜びには至りません。

本当の喜びは、自分がありのままで愛されていると気づいたとき、内側から湧き上がってきます。喜びは自分で手に入れるものではなく、与えられる贈りものだと理解したとき、私たちはそれを受け入れることができます。無理に生み出そうとするのではなく、自然に喜びに包まれるのです。

イエスは友人たちとともに婚礼の宴に招かれました。 *やがて、ぶどう酒が尽きてしまいます。そのとき、何かが欠けているのです。イエスは貧しい人々の中におられます。彼らとその貧しさの中で出会い、期待を超えるものを与えられます。イエスが望まれるのは、彼らの喜びです。そしてそのために、すべてを尽くされます。*

何年も前、私はコルカタの「神の愛の宣教者会」の本部修道院にいました。壁にはマザー・テレサの言葉が掲げられていました。それは、神が私たちの弱さを受け入れてくださること、完璧さを求めておられないことを思い出させてくれました。私たちは常に強くある必要はないのです。

内なる貧しさは、自分は十分ではないと感じさせます。そしてそれは、本当の自分を隠そうとすることにつながります。しかし、空の手でキリストの前に立つとき、キリストはその手を満たし、少しずつその貧しさを変えてくださいます。

悲しみを感じ、喜びが遠くにあるように思える時でさえ、イエスが「誰も奪い去ることのできない喜び」について語ったことを思い出すのです。*

憐れみ深い神よ、どんな状況にあっても、あなたの喜びを迎えたいと願います。あなたが私たちを愛してくださり、終わりのないいのちへの道を開いてくださると知るとき、喜びは私たちの内から湧き上がります。

他の人に喜びをもたらすために、私にできることは何でしょうか。直接会って話すことは、オンラインだけの交流よりも深い喜びをもたらすかもしれません。謙虚な奉仕を通して、私たちは思いがけず多くのものを受け取ることがあります。特に、その人々の顔に喜びが浮かんだときに。

 

意味を求めて

一人ひとりの中には「意味」への渇きがあります。この渇きをどこで満たすことができるでしょうか。忙しい日々の中で、私たちの内に「あなたは愛されている」とささやく静かな声が響いています。

指導者ニコデモも、人生の真の意味を求めていました。彼はイエスのことを聞き、夜にこっそりとイエスを訪ね、自分の思いを言葉にしようとしました。*

信仰、人生、死、意味、目的に関するもっとも深い問いは、しばしば言葉にされないまま心に残ります。しかし、それらが表現されない限り、私たちの内には満たされない何かが残ります。ニコデモもそうでした。

いのちの源へと導かれるまで、私たちはその問いを抱えて探し続けるでしょうか。すべての答えが見つかるわけではありませんが、あえてキリストに従うとき、私たちは澄みきった信頼のうちに神に自分を委ねるときを迎えます。* そうして、神のすべてを包み込む愛と善さを発見するのです。

イエスの人生の意味は、人々を裁くことではなく、すべての人が神に愛されていることを理解できるようにすることでした。イエスは、より大きな愛への道を示すために来られました。それがイエスの使信の核心です。

ニコデモは少しずつ光に近づいていきました。イエスとの夜の出会いから1〜2年後、彼はエルサレムの権威者たちの前でイエスを擁護しました。* そして数か月後、イエスが十字架にかけられたとき、彼は大きな勇気をもって行動しました。* 彼はイエスの友人たちの一員となることを選び、その勇気は彼をコミュニティーへと導いたのです。

導いてください、優しい光よ。暗闇に包まれた中で、あなたに従って歩みます。遠くの景色は見えなくても構いません。一歩ずつ、あなたとともに。*

人生にどのような意味を見出しているかについて誰もが自由に語ることのできる集まりを企画してみてはどうでしょう。信仰から意味を見出す人もいれば、何らかの行動を通じて見出す人もいます。また、答えよりも疑問の方が多い人もいるでしょう。こうした分かち合いと注意深く耳を傾ける姿勢こそが、互いを励ます道となります。適切であれば、集まりは聖霊を呼び求める歌で始まり、感謝の歌で終わることもできます。

 

正義ある世界を求めて

不正義は、それが環境破壊であれ*、格差、暴力、抑圧、戦争であれ、私たちの心にさまざまな感情を呼び起こします。憤り、怒り、悲しみ、時には絶望。しかし、正義のために立ち上がろうとするとき、私たちは自分の意見に固執して、他の視点が見えなくなる危険があります。* 自分のやり方に捕らわれ、社会を脅かす二極化に加担してしまうことさえあるのです。

自分の枠の外に出て、異なる視点に耳を傾けるのです。たとえ同意することができなくても、異なる意見から問われることは大切です。

時には、解決策が見えない複雑な現実を受け止める覚悟が必要です。* 互いに異なる両方の側の物語を聞くことはときにとてもつらい体験です。しかし、それを聞かないことこそが不正義なのです。

ある日、テゼでの夕の祈りの後、一人の若い女性がこう言いました。「暴力性が私の中に確かにあります。でも同時に、私はそれを自分の祈りや黙想の必要性の中に位置づけています。」私はこの言葉に解放感を覚えました。感情を抑え込んだり、なかったことにするのではなく、彼女はそれを神への渇望と並べて置いていたのです。

内側にある破壊的な力によって支配される危険性があります。人々を、ときには国全体を悪者にするのは簡単です。しかしそれは暴力の連鎖に巻き込まれ、さらにそれを助長することになります。黙想─すなわち祈り─は、私たちを別の次元へと開き、内なる葛藤と和解し、橋を架ける道を見出す助けとなります。

聖霊はそこにおられて、勇気ある決断へと私たちを導いてくれます。テゼ共同体の創設者、ブラザー・ロジェは、「平和をつくる者の創造的な暴力」について語りました。* それは、福音の道から逸れる誘惑に屈しない力です。

イエスは、福音書が「神の国」と呼ぶもの、つまり正義と正しい関係の世界を体現されました。しかしイエスは怒りを覚え、神殿の商人たちの台をひっくり返しました。神のための場を取り戻すためです。* 宗教的偽善に対しては厳しく語られましたが、ニコデモのような宗教指導者を歓迎されました。ファリサイ派の人々とも親しくされ、彼らのもてなしを受け入れましたが*、社会から排除された人々とも食事を共にされました。イスラエルの失われた羊たちを深く愛されましたが*、ローマの将校の信仰を称賛し、その子を癒されました。* そして、旅の途中で出会った異邦人の女性の信仰から問われることにも自由で、その信仰に心を動かされました。*

異なる人々との関係を築くという冒険を生きられたイエスは*、信頼を育み、神の和解の力を体現されました。

闇の中に光が輝いていることを知り、人間の善さから生じる小さな行いの中に神の愛が輝くことを信じるなら、私たちは自由に行動することができます。

主イエス・キリストよ、あなたは地上の生涯において、不正義にうをことをためらわれませんでした。そして、出会った人々と橋を架ける道を探されました。人々や国々を分断するものに橋を架ける渇きを、私たちの内に増してください。

分断がある場所に橋を架けるために、私たちが取るべき具体的な行動は何でしょうか。一人では難しいこともあります。他の人たちと共に考え、案を出し合い、社会の周縁にいる人々に一緒に手を差し伸べるのです。異なる意見を持つ人々の恐れを理解しつつ、自分の福音的価値観を保つとはどういうことでしょうか。

 

コミュニティーを求めて

テゼに滞在するボランティアの一人がこう話してくれました。「私は自分の価値観と福音の価値観に従って生きたい。何かを決めるとき、それが他の人々、地球、そして自分自身にとって受け入れられるものかを考えます。より良い世界を築きたいのです。」

他者との、すべての被造物との、そして神とのコミュニティー。コロナによる人々の孤立化の後、コミュニティーとしての世界を再構築する準備ができているでしょうか。* それは重荷を担い合う世界。* 私たちはみな繋がっています。神から贈られた共通の家である地球の中で互いに属し合っているのです。

十字架のもとで、イエスのコミュニティーは崩壊しました。ユダは裏切り、ペトロは否認し、ほとんどの友人たちは逃げ去りました。すべての人を受け入れる愛の交わりを築こうとされたイエスの働きは、終わったかのように見えました。そしてこの闇の中でイエスは、ご自分を拒絶する人々のためにもいのちを差し出そうとされました。そしてもっとも闇が深いこのとき、コミュニティーが十字架のもとで再び生まれたのです。*

ヨハネによる福音書は、4人の女性と1人の男性が最後までイエスと共にいたと記しています。言葉はなく、ただそこにいるだけでした。彼らは、何も可能に思えない状況の中でもイエスが創り続ける交わりの証人となったのです。

敵意と拒絶は人間の交わりを壊します。十字架の上で、イエスはこの敵意と拒絶を自ら引き受け、もっとも苦しいときにさえ交わりを再構築されました。*

十字架のもとで、イエスは愛する弟子を母マリアに息子として託し、彼はイエスが愛するすべての将来の弟子たちを代表して、彼女を自分の家に迎え入れます。新しい家族が誕生します――それは勝利や栄光によってではなく、無言を強いられた苦しみを超える愛によって生まれた、イエスを信じる者たちのコミュニティー、教会です。誰がこの交わりから除外されることがあるでしょうか。*

教会において、私たちは苦しむ人々、不正義の犠牲者と共に立つように召されています。* 私たちは、互いを公平に、まっすぐに迎え入れ、それぞれの自由と誠実さを尊重するように求められています。

イエスは週の七日目である安息日の前夜にその働きを終えられました。* これは、神が創造の業を終え、すべては「極めて良かった」と語られた七日目と重なります。* 十字架をとおしてイエスが私たちに差し出したいのちが新しい創造の始まりです。イエスは暴力的な死を遂げましたが、しかし「いのちの水」*がその体から流れ出ました*―それは聖霊にほかならず、地の表を新たにするものです。

イエスの体は近くの園の新しい墓に葬られました。* その園は、私たちの大地が向かうべき未来の姿です。そしてそれに続く第七日目の静寂の中で、私たちがその一部であり、私たちに大切にするようにと委ねられたこの傷ついた世界は、秘かに変容を始めるのです。

キリスト・イエス、あなたはすべての人のためにいのちを捧げ、私たちにどれほど深く関わってくださるかを示してくださいました。私たちも、あなたの母マリアと愛する弟子と共に十字架のもとに立ち、あなたの語りかけを受け入れることができますように。

私たちは誰と共に立つように求められているのでしょうか。どのようにしてコミュニティーを体験しているでしょうか。家を共有し、祈り、食事を共にする学生たちがいます。特に海外からの学生を歓迎しています。毎週誰かの家に集まる学生たちもいます。周縁にいると感じている人々を迎え入れ、不正義の感覚を単純な方法で乗り越えていくのです。

 

平和を求めて

私たちは平和を切望します――内なる平和と、神が深く愛されるこの世界の平和を。「まず自らの内に平和の業を始めなさい。あなた自身が平和で満たされるとき、他の人々に平和をもたらすことができるのですから」と4世紀の信者は語りました。*

復活の朝、園でマグダラのマリアと出会ったイエスは彼女に尋ねました。「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」* 待ち望んだ方が死に打ち負かされていないと悟ると、彼女の涙は喜びへと変わりました。そしてイエスは彼女を遣わし、見たこと聞いたことを友人たちに伝えるよう命じられました。

その後まもなく、イエスが弟子たちと出会った時、彼らはまだ恐れの中にいました。「あなた方に平和があるように」、これがイエスの最初の言葉でした。* 彼らの恐れの中に歩み入り、ご自身の現存の平和へと彼らを開かれました。聖霊を彼らに吹きかけ、和解の業を継続する責任を与えられました。

イエスが死の前に約束した平和、すなわち「世が与えることのできない平和」*は、単なる紛争の不在ではありません。それをはるかに超えるものです。聖書の言葉「シャローム」には、回復と包容性の意味が含まれています。これは神が私たちに託された平和であり、私たちはそれを育み発展させるのです。

他者が自分に与えられている自由と平和を見出す手助けをし、敵意の障壁や彼らを閉じ込める壁を打ち壊すために動くとき、私たちはまさに神のいのちにあずかっています。そして創られたものすべてを驚嘆と感謝をもって見つめ、それを大切にしようとするとき、私たちは互いに同じ道を歩んでいるのではないでしょうか。

私たちだれもが、復活のキリストが一人ひとりに約束する平和に包まれる必要を抱いています。その中でこそ私たちは共に歩み、互いに寄り添いながら一歩一歩希望を蒔いていけるのです。* 置かれた場所で、それぞれの方法で、もっともささやかなしぐさを通してさえ、私たちは和解のしるしとなり、平和の巡礼者となるのです。

この世界の破壊的対立のただ中で暴力に苦しむ人々の声に耳を傾けるのです。戦地に住む人々と連絡を取り続けることは、その一つの方法です。抑圧的な体制や戦争を進める国々の中で正義を求める人々がいます。彼らを支えるのです。こうした人々の中には、自らの証しを分かち合う用意のある人もいるかもしれません。平和のための祈りの集いを企画し、そうした証しを分かち合うのです。そのようにして聖霊が今日私たちに語っていることに耳を傾けます。

愛の神よ、私たちを祝福してください。聖霊によって、復活したキリストと共に歩む私たちの歩みを常に導いてください。私たちが希望の巡礼者、平和の巡礼者となることを求め続けますように。

 

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Coroczne przesłania

Opublikowane 2026/02/09